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深読みを求める商業施設
ターミナル21ほど深読みできそうなショッピングセンターはない。
たとえば、珍スポットが”珍”である所以は何だろうか?私が思うに、それらは基礎や王道、伝統、歴史的文脈から外れており、カフェなども含む商業施設であれば利益ないしマーケティングを度外視したケースがほとんどだ。ややもすれば独りよがりな自己表現に終始しており、そのズレを「面白がる」ないし「発見する」人との関係が生まれて、やっとはじめて”珍”と評される気がする。
何がウケているのか、なぜウケているのかが作り手にも分かっていない。ありていに言えば、かなり他者に依存しており、作品として底が浅い。
上の写真は確かに”珍”だが、この深読みができそうな施設こと、ターミナル21をただの珍スポットにとどめておくのは勿体無い。ここには貫徹した作り手の意思があり、見る側、つまり客をパッシブにさせる力がある。
バンコクにあるショッピングセンターでのターミナル21はどのような立ち位置か。高島屋が入っているサイアムスクエアや伊勢丹のあるセントラルワールドよりかは低い価格帯の印象がある。地元民もよく使う庶民派のMBKセンターよりかは余所行き感があるとも言えよう。
狙っている層は若めで男性よりも女性に寄せているような…バンコク在住30代の友人女性に言わせると、メインフロアが渋谷109でレストランフロアがLUMINEっぽいらしい。お値段もそこそこ、ユニクロなど売ってるものもそこそこなので所得の高いタイ人だけでなく外国人もターゲットに入っている。そういえば留学生仲間でここにサムギョプサルを食べに行ったこともあった。
ターミナル21という名前の通り、施設内全体を空港のターミナルに模した作りになっている。空港感が見受けられるのは、パタヤ店の外観と連絡通路、コラート店の最上階が展望台のようなスペースになっている点、全店のエスカレーター上でのフロア標示。
フロアマップの画質は飛行機の座席モニターに似ている。パタヤのターミナル21は外にどでかい飛行機がランドマークとして設置されているので画像左上に飛行機のアイコンが描かれているのが分かるだろう。アイコンのダサさも相まって、”いま私たちは大体ここらへん飛んでますよ”を示すまもなく着陸するときの座席モニターにも見えるオマケ付きだ。
上の画像ではゴールデンゲートブリッジが写り込んでいることから、サンフランシスコフロアだと分かるように、各階で国・都市のテーマが決まっている。
日本・東京、フランス・パリ、イギリス・ロンドン、トルコ・イスタンブール、それとざっくりカリブ海諸国とかざっくりした括りの地下フロアと古代ローマか古代ギリシャっぽいエリアがあった気がする。当然ながら、ざっくりとした括りのフロアはざっくりとしたオブジェしかないので、あまり期待しないほうがいい。椰子の木ドン!とか。
ちなみにタイ国内では首都であるバンコク、リゾート地のパタヤ、東北部のはじまりコラートの計3カ所に店を構えている。多少の差こそあれ、それぞれの店舗に大きな違いはない。同じ店が入っているという意味ではない。内装(ディスプレイ?)のコンセプトがブレずに貫徹しているのだ。ディスプレイこそがこの記事のメインテーマとなる。
ディスプレイの魔法にかけられている
私がはじめてコラートのターミナル21に行ったのは、タイ東北部のコンケン県に留学しておよそ3ヶ月が経った頃、つまり、2018年12月だ。異国で歌舞伎町を見た私は当然のことながらド肝を抜かれてしまった。が、同時に日本的な猥雑で下品な空間に落ち着きも感じた。下品とは言えど、故郷の原風景に心が安らぐのは想像できると思う。あとで不思議に思ったのは、私はターミナル21に行った日には必ず長居してしまうことだ。
この「落ち着き」と「長居」の間にどういった飛躍とからくりがあるのか。考察してみよう。
では何が私を長居させたのか。まずはそれを支える東京フロアの面白さについて書く。
国のイメージを集積させる点では統一していると言えよう。しかし、フロア全体を見回すと要素が氾濫していて当事者からするととっ散らかって見えるのも確かだ。ただし、自分が日本で生まれ育った日本人であることを抜きにしても、パリやロンドンなどのフロアよりも東京フロアは圧倒的に猥雑だ。もっと言えば日本はかなり猥雑だ、と見られていると考えていいだろう。各フロアにテーマがあるとしたら東京は確実に「猥雑」だ。
左上に見切れているのが渋谷センター街。街と街の距離感が桃太郎電鉄とほぼ同じだ。
ここだけ見ると高級料亭みたいだが、「ションベンするところに松が生えていたらサブカルチャーっぽいな」と思われているかもしれない。人のいない瞬間を狙ってトイレで撮影するのは非常にスリリングだった。
このフロアは猥雑というテーマのもとで、客を動かすための仕掛けに満ちあふれているのではないかとさえ思ってしまう。あとで説明するが、特にイスタンブールフロアはテーマが東京フロアと別で、仕掛けのパターンは被っていると考えられる。
話を戻す。猥雑とは言えど、1つのフロアに原宿、歌舞伎町、ポンチ絵の江戸、平安朝、ありそうな昭和が時代も地域も通り越してごっちゃになっているのは事実。しかし、本当に無秩序ではない。少なくともバンコクとコラートでは、それぞれが棲み分けられている。そこにリアリティがあるかどうかは別にして、歌舞伎町は歌舞伎町だとハッキリと認識できる。原宿にいるような若い女性に和歌を詠んでいる侍が歌舞伎町で客引きをやっている、みたいな次の誰にも説明できないカオスな夢同然の無秩序はここにない。ただ、猥雑なだけ。
ディズニーランドやハウステンボスなどテーマパークのような機能をショッピングセンターに持たせていると考えることができよう。
状況は違うが『ディスプレイの世界 ディスプレイのデザインとマネジメント』ではディズニーランドについてこのように論じている。
わが国にあっては、自然を愛でる「紅葉狩り」「観桜会」や「舟遊び」など、人や舟の動きにつれて景色が変化するシークエンシャル(連続的)な仕掛けが歌舞音曲の演出とともにもてはやされた。
(中略)
また、庭園を天国と見立てる庭園作りのなかから、変化に富んだ回遊式庭園などによって時間を忘れる楽しみをセットする導線計画などが考案された
猥雑と同じくらい”シークエンシャル”も重要なキーワードだ。猥雑な日本を回遊するために(長居させるために)このようなめちゃくちゃな仕掛け(ディスプレイ)が必要とされているのだろう。
出入口は日本要素との融合が自然すぎて、一瞬気付かなかった。派手一色に見えるトーキョーフロアでも、出入口周辺は意図的に家電量販店のような内装にしてある。井上和香がCMに出てたときの消費者金融の看板が飾れらていた以外は、周囲には取り立てて目ぼしい店もなかった。
ただ回遊させるためだけであれば、リアリティのある日本をわざわざタイに作る義理などない。ちなみに2019年のタイ人訪日観光客は130万人、日本人訪タイ観光客は180万人で在タイ日本人は7万人。リアルな日本を知るタイ人にバッタもんのリアルを提供したところで、一体何になるのか。
それならば、あえて間違いやズレを混在させることで、計300万人超のタイ人訪日観光客と日本人訪タイ観光客に一種の内輪ノリ的おもしろさを提供した方がいいと思うのは私だけだろうか。日本のリアルを知らない人には気付かれまい(※めちゃくちゃ深読みしてるだけの記事だというのを忘れないでください)
このイスタンブールフロアの写真を見てほしい。一見何の変哲もないオシャレなだけの空間と思いきや、アラビア文字風の吊り標識にラテン文字でWelcome to Istanbulと書かれているではないか!というよりも、現在のトルコ語の表記はぐにゃぐにゃのアラビア文字でさえない。しかし、上にも書いたようにこれが正しいかどうかなどは全く問題ではない。変な日本語も偽のトルコ語も笑ってはいけない。いや、笑ってもいいが、笑うかどうかという選択を迫られているのはディスプレイの魔法にかけられていると同義だ。
あくまでここで正義とされるのは「いやいや違うやん」とツッコミを入れる人間をほくそ笑ませながら、別の人間を「オリエンタルでオシャレやなあ」とフロア内を回遊させる仕掛けだけ。もしかしたらランプの柄が超不謹慎なメタファーになっているのかもしれない。が、詳しくないので割愛する。パリフロアもロンドンフロアも一応は回遊させられて、一応は長居をしたものの、十二分に楽しめたわけではない。イスタンブールと同様に、詳しくないので言うべきことが見つからなかったのだ。サンフランシスコフロアには「デカかったらおもしろい」くらいのテーマを感じた。邪推かもしれないが。
こうした猥雑な諸要素をうまく編集して一つにまとめた例は他にないか、と考えたときに現代美術家の会田誠による2009年の作品”MONUMENT FOR NOTHING Ⅲ”が頭に浮かんだ。(紹介するためにリンク先の国際交流基金から拝借したが、画集だと青幻舎から2014年に出版された『会田誠 天才でごめんなさい』に収録されているので興味のある方はそちらをご覧ください)
上の画集によるとこの作品は「”分断された風景”および”文化的色彩”」というテーマのもと、軽薄な看板広告のイメージを足がかりに構想を練った、という。練った構想を形にすることについては氏のエッセイ集で次のように記されている。
ネットという野原に咲く花々を適当に摘んで、一つの大きな花束を拵える、その編集作業みたいなところだけが僕のオリジナルな仕事と、この作品に限っていえば捉えている。(『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』)
ここで氏がしているのは編集作業。女子高生もパチンコ広告も大売り出しのノボリといった全く違うものが同じ要素を持ったものとして、熊手の上で編集され並べられる。そう考えると、このフロアで原宿、歌舞伎町、ポンチ絵の江戸、平安朝、ありそうな昭和、ゼロ年代前半の渋谷、エディオンの出入り口までもが同じ”熊手”の上に配置されているのは面白い感覚だ。派手さも過剰さもないエディオンにまで同じ匂いを嗅ぎ分けられている。(エディオンの一体なにが”日本”なのか?うーん、全くわからん…いつかの考察テーマにしたい)
TERMINAL 21 Patthaya StationにすればいいところをGinza Stationにしてあるのが巧妙だ。
ランドマーク的なオブジェではなく、こうした小さなオブジェにもフォントや色使いにこだわってるあたりが上級者。
新幹線に21号車なんてないが、別にいい。固定概念に縛られちゃいかん。
ちなみに、深読みをし始めた最大のきっかけはパタヤのターミナル21。東京メトロ、信号機、道路標識、新幹線、それらをアレンジして「21」を前面に押し出す姿勢にはもはや「サムライとニンジャ以外知らなくて日本のことをテキトーに誤解してるガイジン」を感じられなかったからだ。確信犯ではないか?実は日本通ではないか?特に最後の東京メトロにJR東海道線の駅を貼り付ける荒技。だが、誰が気付くというのか。相当なやり手が楽しみながら店を作ってるのではないか。(※これは深読みする記事です。ご了承ください)
ターミナル21は寺だ
では、そもそもなぜ回遊させる必要があるのだろう。店全体を歩き回らせて少しでも多くの金を使ってもらう、というのは半分正解で半分間違いだと思う。タイに限らずだが、東南アジア諸国のショッピングセンターで服や雑貨を買う人はどれくらいいるだろうか。
ここからは又聞きと友人談のオンパレードだが、記事の締め方が我ながらかっこいいので最後まで読んでほしい。
パタヤとコラートはどうか忘れたが、少なくともバンコクのターミナル21の最上階にはフードコートがある。大衆食堂的なポジションでなかなか料理も美味しくてなんと4,50バーツあればお腹いっぱい食べられる。1食で4,50バーツ、日本円でおよそ180円だが、これはバンコクの物価を考えても異常に安い。地方都市のコンケン県に留学していた頃に通っていた路上の屋台が45バーツだった。だから美味しくて安いご飯をめがけて常に大混雑している。タクシーの運転手も観光客も地元民もいる。
ターミナル21のえらい人(又聞きなので)が賃料を無料か限界まで安くしてレストラン側にテナントを貸し出して、価格もギリギリまで安くしている。それで毎月か毎年(又聞きなので)の赤字がウン千万円にも登るという。それでもフードコートを続けるのは貧しい人もお腹いっぱい美味しいものを食べてほしいとの思いかららしい(友人談)。タイ語の日常会話で頻出する「功徳を積む・ทำบุญ」がこのような形で表出しているわけだ。
下のフロアから回遊した結果、ここに辿り着いたとしよう。ターミナル21に行ったときの身分は観光客だったので、安いフードコートにも行ったが、レストランフロアも通っているわけでせっかくならそこにお金を落とそうかなという発想になる。レストランフロアといえど、上に書いたようにサンフランシスコにオープンカフェっぽいファサードの大戸屋があったりと、この商業施設は脳みそを揺さぶることに余念が無い。楽しんでお金を落とせるのだ。
実にプラクティカルな方法で客を回遊させてレストランへの導線を作ると同時に、惜しむことなく美味しいご飯を安価で提供して功徳を積んでいるターミナル21が風変わりな大寺院に思えてきた。
記事の冒頭で、私は珍スポットなど利益を度外視した底の浅い建造物だと書いている。それも信仰心がないからそう思えてしまっただけだ。信仰心だけで動く人間の気持ちは理解できないが、しっかりと儲けも出しているターミナル21を考えれば、珍スポットも悪くないと思う。
大寺院であるターミナル21の各フロアを奔走し、施しのなんたるか少しだけ理解した気がする。いま、そんな自分を釈迦が悟りを開くまでの前世での一生を描いた絵になぞらえているのだが、これは深読みではなくただの自意識過剰だろうか。