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それが素晴らしい音楽を聴いた後にじんと来る余韻でなくとも、素晴らしい映画を見終えてもなびき続ける感銘の余韻でなくとも、ただ、生活をしているだけでつきまとうあらゆる場面での怒り、悲しみ、喜び、驚きにも、細く尾を引く余韻ってのはあって、それはその人の意識からおりた後でも、ひそやかに毎時毎秒積み重なって潜伏し続ける。一本一本重なり、さけるチーズのような束として私達のなかに。
けど時折、束からささくれたいずれかの余韻が、触覚となって普段そこはかとなく気がかりとしていたものを検知してしまうときがある。その余韻は自身の根っこにあるいつぞやの記憶をむやみに知らせてくるのだ。
しかもそれは大抵の場合さほど重要な記憶ではないことが多い。パーソナルがすぎる例を出そう。
私はアクエリアス自体を見かけたり、アクエリアスという単語を目にしたり音として聞いたりするとたまに、高校生時の修学旅行で行った東京のどこかの地下駅の踊り場の蛍光灯を思い出すことがある。両端がジトっと曇った覇気のない光だった。
私達の班は、私と班を組むぐらいだから皆が億劫で、二日目に自由行動を言い渡されても、事前に計画を練っていたにも関わらず、都市に怖気づいて、教師に散開を告げられたその場所、のちの集合場所となるそこいらでウロウロするばかりで何処にも行こうとしなかった。
「スニーカー買いてえな」とか言ってたのに結局買ったのはN君が自販機で買ったアクエリアスだけで、私は「東京まで来て結局買ったんはアクエリだけやったな」とつぶやくと、面白くもないのに皆笑いだして、存外ウケてるものだから照れ隠しに視線を中空へ逃がしていると、そこにあったのはしみったれた色した蛍光灯。というわけだ。
あるよねこういう箸にも棒にもかからない無駄な回想。頑張って思い出したわけでもないのに急に出てくるやつ。
用を足してると、そういやヒカキンってめっちゃトイレットペーパーのストックあったよなってたまに思い浮かぶやつ。
意識的にではないにせよ、それは少なからず自分から湧いたのだけど、にも関わらず、誰得なんだ?っていうあれ。それはフラッシュバックなんて聞こえのいいエッジもついてはいない。だから生活に支障をきたすってほどでもない。
余計かもしれないが、伝わらないことはワラスボの顔ぐらい恐ろしいことなので、さっきの説明を足そう。
つまり、かつての余韻のその端くれが「アクエリアス」を検知するや、それを誘因に過去の些末な余談を引っぱり出してくる。使われていなかった拡張子が気まぐれに目覚めて関連付けをやりはじめたみたいな。この例えあってる?
急に現れたバナーをクリックしちゃってへんなところに飛ばされる、でもいいですね。
これを誤回想と呼びたい。誤作動と回想を合わせた感じの。
この造語を流行らせたいといった魂胆など一切ない。「魂胆など一切ない」などの予防線を明言してしまう奴は大抵キナ臭えが信じてほしい。あくまでこの場限りのスムーズな意思疎通を図るため、余計な説明を省くために使うまでであって、それ以上の目論見もない。そもそも先人が何かしら既にしっくりなネーミングをあてがってる可能性もある。あったらごめんネ。
今まで「角ディスプレイ」「抜け看」などの命名を出してきた、それらには多少期待していた、だが羽ばたかなかった。辞書に載っかってやくんねえかなという下心があった。PVやCM、アカウントを作ってなかったし、レッドブルも与えてなかったんだから流通しなかったのは当然だ。
だが誤回想はこの場限りのものであってほしい。心配に及ばず望み通りになるとは思うが。ぼんやりしたもんはぼんやりしたまんまでええ、抽象をあえて額にはめて対象化してしまうのは、鮮やかな淡いを削ぐ愚行に等しい。事情説明も長さを帯びれば弁解だ、ずらかるぜ。
例の誤回想が頻繁にあると、人は余韻を尻尾のように引きずってもいるし、チョウチンアンコウみたいに前方にも伸ばしていると思わざるをえない。って私は思う。
今回は、磨りガラス越しに見える誘導灯の緑の光回。事象としてのおかしさも多少あると思われるが、私にとっての「誤回想を起こす誘因代表」として選出しただけであって、見たままの事象としてのおかしさについてはあんま掘り下げないと思う。
こりゃ私に限ったことなのかもしれないがあの緑の光には妙なノスタルジーがあるんですよねといったことばかりを言う誤回想メイン。
不特定多数の方々が閲覧する記事という体裁において、特に路上観察系は、事象としてのおかしさだけを扱う方が無難である。その理由はそこに共通認識、なんか見たことある~、があるからだ。んがしかし、こと個人的なノスタルジーを扱うとなれば、そいつはブログである。
そう、この回は個人ブログだ。だから分析もなけりゃ解決もない。だが良き回だ。
なぜなら、愛すべきあなた達が、私と共通したノスタルジーを体験してなくとも、「なんらかをきっかけに誤回想を体験したことがある」のは、共通している。
ということは、この回には一定の共感が確約されている。そして先に伝えておくが、誤回想にオチがないように、このブログもオチなど無く投げっぱで終わる。
だがあなた達は賢い、投げっぱで終わることすら深遠なものとして買いかぶってくれる。ただの停電をオシャレな店と捉えるほどに優しいあなた達だ。
投げっぱといってもずっと前方へ放るつもりだ、いつかまたそいつを拾いに行くためにね。バリカッコよく決まった今年一発目よろしくお願いします。
先述のとおり余韻ってのは束となって私達のなかに潜伏している、誤回想の誘因となるのはなにもアクエリアスだけではない。私からはみ出した余韻は、あの誘導灯の緑色の光を検知するにつけ、いつかのある日を回想させてくる。
あれは中学生の頃。夕時の近所の総合病院の裏手に回った時に見える磨りガラス越しの緑の光。私は日課である犬の散歩のたびにそれを視界に入れていた。
そんなあのときの光景を思い出すのである。ただそれだけである。
である、じゃねえよって感じだがそういうもんなのだからしゃあない。いまだに磨りガラス越しに見える誘導灯の光を見ると、あの頃をひっくるめて思い出す。
なんなら、越し(ごし)じゃなくても誘導灯そのものを見るだけでもたまに回想が起こる。添付ファイルとしてくっついてるみたいに。
これはどこかの病院のガラスブロック越しに見える誘導灯の緑の光。
私が中学生時にいつも見ていたのはもっと小さめの窓で、そこから洩れる緑の光だった。なぜこんなどうだっていい光景に会うと、どうだっていい回想が起きるのか。
それに、こうもあきらかな形にして取り上げてしまったら、「緑色の光を見る→あの頃が回想される」のパイプはより太くなっちまうんだろうね。
こりゃもうバグだ。意識に関係なくうねる余韻の端くれは、些末な対象を捉えては、「似たやつでこんなんもありましたよね」と勝手な紐付けをしてくる。
屋外と違い、屋内は対流せぬ暗闇だ。幾らかの思い入れを込め眺めてしまうのは、そのこもった淡さが苦しさにも見えるからだろうか。
誤回想の誘因は他にもある。私はライターを見ると、高校生時の文化祭のあれを思い出してしまう。
その年の文化祭は一般の方も入場可能で、近所の親子連れ、お年寄りも多数流れこんできていた。白いテントの下で焼きそばを作る同級生のそばで、ただ居るだけをしていた私に、他校から来たのであろうギャルらしき女子高生が近づいて「火ぃ持っとる?」と訊いてきた。とっさに私は、さも普段から煙草を吸ってる素振りで「あーごめん今もってないわ」とポケットを軽くはたきながら答えた。わ~~~ダセえ思い出。色めき立ったチンピラが急に湧いて出てきてギャルを取り次いでくれたので助かった。
もちろん当時から今まで煙草は吸ったことがない。しかし厄介なことにあの時の余韻が消し忘れた火のように、いまだにほとぼってきやがんの。やんなっちゃう!自分のなかでケリをつけれてない、もしくはケリをつけ忘れたことがしたたかに余韻として残っては、誤回想を導きやがるんでしょうね。
擬人化の心持で、暗い中ひとりでよく頑張ってるね!誰も居ないのに誘導してくれてありがとう!ってねぎらいたい気持ちも多少あるっちゃあるけど、緑の光って気色のいいものではない。磨りガラス越しだと尚の事。ゴースト・イン・ザ・シェルOPの色味に似てない?
緑、不気味、といえばワニ。ワニを想う時、私はたまにあのワニが浮かぶような体になってしまってる。
「ビクターとクリスタベル-そっと恋して」という絵本をご存知だろうか?これも中学生時の回想になる。私は誕生日に母からその絵本をもらった。
内容は美術館の守衛が、館内に掛かっていた絵画の中の女性にガチ恋をする話で、私はまずその絵本の表紙を見て、不気味な印象を受けた。
花束を持った緑色のワニが額縁の中のワニに見惚れているのだ。今見ても奇天烈な表紙だが、当時は嫌悪すら感じていた。しかし読んでみるとても良かった。
良かったのだが中学生の私は、ワニがなぜ人のような格好をし、人と同じ生活をしているのか?それに、主人公のビクターとヒロインのクリスタベルはお互いがお互いにワニであることを物語のなかで自己言及することがなかった(と思うたぶん)。
ミッキーマウスってなんで手袋をしてるんだ?と今さらあえて取り沙汰にする大人が居ないように、私達っていつそれらの違和感を克服してきたのだろう。
いやまだ克服できてないから余韻としてまだくすぶらせているのか?
しっかり見たことないけど、なんか映画のロスト・チルドレンの色味に似てない?写真の撮り方によるところが大きいけど。
陰鬱な緑とは対照的に、むこうには温かみのある電球色の光が見える。発光という点では同じでも、色味によって受ける印象が違うのはなぜだろうか。
二十歳の頃、バイトだけをしていた時期があった、そのバイトすらやめて、唯一の心の寄す処であるばあちゃんちまで歩いて行こうとしたことがある。結局は80㎞歩いてもう無理ってなって、そこからタクシー呼んで駅に着いて電車で行った。
外灯もない山を越え、薄暗いトンネルをくぐりながら、ああ怖いおれはなぜ歩いてんだと後悔していると、遠くにポツンと白い光がみえた。
とんでもなくホッとしたのを覚えてる。ホッどころじゃなくもう、ドッだった。人は自販機の光ごときに愁眉を開かされることもある。
光についてはまだある。しがない回想を思いつくまま載せる回なんで続けます。
仰向けになってナツメ電球を見ていると、貧相な光だなって印象よりも先に、左目だけ二重の人が浮かぶ。
会社の寮に住んでた頃、各個人に部屋はあったが風呂は個別にはなく、共同の大浴場を使わねばならなかった。普段は誰も居ない深夜に行ってたのにその日に限ってなんとなく出入りの多い夕方に行ってみた。
清潔になって風呂から出ると、ロッカーに入れておいた上下の服がなくなっていた。ロッカーといっても小学校の教室にあるのと同じ、横に寝かせた箱をただ積んで並べただけみたいなただの棚。そりゃあ簡単に奪われていた。
せめてこれだけでも…みたいに残ってた眼鏡とバスタオルに苛つかされた。ズボンに鍵を入れていたので部屋にも戻れない。腰にバスタオルを巻いた半裸のまま表に出て別棟にある管理人受付まで行き事情を説明、合鍵をもった管理人同行のもと自室を開けると、消灯させてから出たはずなのにナツメ電球だけが点いていた。
「一応警察呼びますか?」薄闇のなかで私の顔を覗き込んできた管理人と目が合う。左目だけ二重だった。「いやいいです」今すぐ寝たかった。
これのせいで、たまにいる片目だけ二重の人を見ると、このナツメ電球の回を思い出しちゃう逆パターンもある。
部屋は荒らされてなかったけど、3万もの巨額の富が入ってた財布が失くなってた。返せどクズが。お前は眼鏡とバスタオルも奪えねえしょうもない小物だ。これを読み終えたら自首しろ。
汚い罵倒のあとに載せるべき画像ではない気もするし、これは磨りガラスではない、しかしこれに関しては全貌が見えてよかった。外壁のタイルをそのまま引き込んだようなエントランス。そのタイルに掛かった十字架も相まってか、緑の光が抱えきれぬほどのニュアンスを湛えている。
様々なフィクションに触れてきたことによって刷り込まれているのか、神や天使、十字架のようなシンボルには緑ではなく、願わくば白くまばゆい光がさしてあってほしいという思いがある。なぜかわかんないけど白い光から連想すべきは、希望とか尊さや儚さだ。
私が徒歩でばあちゃんちを目指していた途中に見た自販機の白い光から連想したのは、大げさではなく救済だった。
「ナツメ電球」から、「左目だけ二重の管理人」を誤回想してしまうみたいに、「光」や「救済」について想う時、私はとある「豚」について思い馳せねばならん仕組みになってる。
25歳の時、10歳離れた弟と電話でよく話していた。近々にあったことを話すとかではなく、最近ふと思ったこと、まさにこの誤回想のようなどうでもいいうわ言だけを話すようにしていた。その日私は、自分が描いた漫画についての感想が欲しくて一方的に語っていた。
内容は、食肉処理が宿命づけられている豚の悲哀を描いたもの。
養豚所から屠殺場に明日移送されることに感づいた一頭の豚が、その晩に脱走を試みようとするが、高い鉄柵に阻まれる。悪あがきにその鉄柵のある一本に噛み付いてガシガシと頭を振っていると、急にその一本の鉄柵が、おもいっきり眩しく光りはじめる、眩しさに気づいた豚はいっそう力を込めて鉄柵を噛み続ける、その一本の鉄柵はなおも光続けているが、豚は気づいてしまう。「ただ、ただただ、光っただけやん」と。
電話越しでもわかる。弟は腹を抱えて笑っている。一体これのなにで笑ったのか?あんたは何を言ってんだ?と可笑しくなったのか?
私は臆面が無いなってもうてるんで、己のうわ言を自己解説できんねんな。やってみますさかいに。
要するに、豚がなぜか「光≒救済」の関連付けを人のように前提として成し、且つ「光」に具体的な「救済」を期待した。
有り難いことそこにウケてくれた。確認をとったので間違いない。あんたは何を言ってんだ?と、語っている私そのものを笑ったのがほとんどだと思うが。
絶体絶命シーンでの唐突な光は、棚ぼた的に逆境が打開されることの暗示であるのがベターであるし、そうあってほしい受け手の祈りでもある。思わせぶりな光に弄ばれた豚が不憫だが、現実における光のその先なんてものは、なんてことはない、現実がただただのさばってる場合がほとんどだ。
豚コレラの話題をネットで知った時もこの誤回想が起きた。
私達はフィクションにおける演出としての光に限らず、あろうことか現実の光からも、救済、安堵、希望などの感慨を催す。とはいえ、それは一服の心変わりほどささやかなもので、直接的な施しは与えてくれない。かつての私も自販機の光に救済を見出しこそしたが、取り出し口からアクエリアスが出てきたわけではなかったし、そもそもそんな高望みはしていなかった。
夢も希望もないことを言ったのでちょっと奥に詰めてもらって褒めも入れよう。
緑の光もまあ不気味ですが、実際に硫酸の入ったフラスコを投げつけて来るわけではないし、積んだばかりの土嚢を端から蹴り崩してくるわけでもない。
自販機の光だって明るい。周辺の翳りを払ってくれる。それがすごいし、最悪ジュースだって出てこなくたっていい。硬貨を入れたら光ってくれるぐらいにしてもいい。
至極あたぼうなことを言うが、幸か不幸か現実はフィクションではない。VRゴーグルさえ外しておけば、果報が舞い込む際の光の啓示はない、ということは急な光にビビらなくて済む。後光を背負った天使が受胎告知に来ることもない。そう思うと現実はいつだって果報が舞い込む瞬間の連続でもあると考えることも可能だ。
好き勝手でたらめを言わせてもらったんでね、最後はよりあるあるらしいやつで終わろう。
猫や犬の写真を見たとき、まだ生きてんのかな?って思うことありますよね。
映画バックトゥザフューチャー序盤、モールの広い駐車場で世界初のタイムトラベルをさせられたドクの愛犬アインシュタインを見て私の父親は「でももう死んどるやろな」と言った。カチコチに凍ったデロリアンから無事出てきたってのに、まったく意味が分からなかった。
詳細を尋ねると、役名アインシュタインとして作品内では生きてるが、現実でのこの役者犬は、映画製作年、犬の平均寿命から鑑みるに、もう死んどるやろな、(こんな風には言ってない)ってことだった。
「だったとしても別に言わんでええやん」と思ったが、それ以来だろうか、ドラマやCMに出てくる役者犬やキャットフードにプリントされたモデル猫を見るとたまに、まだ生きてるのかな?と余計なことを詮索する癖がついたように思う。
ミントみたいな色で思い出した。みじめで汚らしい話だが、ストライドエンドレスミントを初めて噛んだときあまりにも味がなくならないものだから、一旦包み紙にはいて、明日もまた噛もうと机に置いたことがある。
その場では消化しきれなかったイベントは蛍光灯から垂れた紐みたいな余韻になって、そいつを引っ張ると他愛ない光が点く。余韻と誤回想の関係はこんな感じかもしれない。例えでしか説明できないので詳しいことは脳の茂木さんに訊いてください。
犬のアインシュタインはもうとうに死んだのでしょうが、作品内に限らず私達の余韻のその一本として生きてるみたいないい感じの締め方はうるせえからやんないんですが、かといって、現実のシビアな部分を突き付けて終えるほど、訓戒を垂れる身分に達してないので希望的に、ほんで明るく終えましょう。毎日一度は笑えるライフハックを教えます。
足裏に強シャワーをあてるとくすぐったくて笑ってしまう。
バイバーイ