川に落ちた自転車が川に受け入れられやがて島になるまで

ひどい人がいるものです。昔、住んでいたマンションの前を流れる川に自転車が投棄されているのを見てしまいました。ひどいやつがいるものだ、けしからんとは思いつつも濡れたり汚れたりするのが嫌だしそもそも誰かしら、例えば市の然るべき部署の人がやるのであろうからと別に拾うわけでもなく、毎朝一向に拾われる様子のないそれを見ては、世の中には全くひどいやつがいる、川の景観を、自然のナニガシを何だと思っているんだと、憤りながら通勤していたものでした。

その後半月ほど、自転車は撤去されるわけでもなく、おいおい周辺住民はなにをしているんだ、あ、俺やんかーなど、自転車が徐々に周りに生え行く草々に覆われるとともに徐々にこの不法に投棄された自転車を見てみぬ振りしていた薄い罪悪感も徐々に消え行くのを感じました。即ち、自転車は半月もしないうちに川をせき止め、徐々に堆積してきた川底の土の上に出現した草たちに覆われ始めたのでありました。

つまり、なんとこの記事、肝心の投棄された自転車の写真がない。ないのです。だけど信じてほしい、これは自転車の上に生えた草。そう思ってここから先続く全く変わり映えしない草の写真をご覧ください。

その後も草は順調に増え続け、自転車はいつしか草の島を作りました。

増水しても流されることなくまさにすっかりと根を下ろした自転車。ここに自転車があったことを覚えている人は向かいのマンションの人々の記憶からも徐々に消えていったかもしれません。でもこの草の下には確実に自転車が眠っているのです。

川の流れを変え、影響力を持ちつつある草の島。

夏が来れば共に成長し、

特に代わり映えしないその姿を日々記録する空しさも感じつつ、

本当に自転車がここにあったのかと時々不安になりながらも、

この目で見たことを信じつつ自転車の上で成長を続ける草たちをただ暖かく見守るのみ。

久しぶりに自転車の一部らしきものの露出に歓喜し、橋の上から写真を撮る僕を訝しげに一瞥していく同じマンションの住民たちはもう忘れてしまったのでしょうね。ここに自転車があること。僕もどんな自転車だったかついに忘れてしまいました。お前は草だ。草の島だ。

最初は異物だったものが段々受け入れられていく様。改心し、存在意義を見出し影響力を与えながらやがてなくてはならないその場所の一部になり行く様。

すっかり立派な見た目になり、一端の小島にもなりました。よもやここに自転車があるなんて。転勤族の多く住む街、マンションの住民も入れ替わり、人が覚えていない限り、ここは草、島になるのです。

僕がアメリカに行くことになり、この日草ともお別れすることになりました。唯一知っているであろう僕がいなくなることで自転車はこうして完全に草になりました。さようなら草、草の島。お前は今から自然の一部。